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●それは風の一吹きから始まった
見渡す限りの地平線。一面の草原の上をさわやかな風が吹き抜けていく。ジンギスカンが駆け抜け、日本の先人たちの思いが深く刻み込まれた、中国東北部、満州の大地である。三東工業社の創始者、中川行夫(現会長)の企業家としてのルーツはここにある。青春時代、鴻鵠(こうこく)の志を抱いてこの地に渡った。土木を学び、人の心を知り、人と人との絆を温めた。そして企業家としての心を育んだ。今、21世紀を迎えて社会は大きな音を立てて変動している。産業構造の変化も急で、特に土木・建築業界では市場を退場していく企業が少なくない。そんな中、三東工業社は激動の50年を生き抜き、新たな未来に向けての歩みを踏み出した。新時代を担う企業としてさらなる発展が待っている。それを可能にしたのは何か。創業者たちが植え付け、その後先輩たちが培った社風。これによるところが大きい。三東工業社の社風という名の「風」。それは創業者・中川行夫の人となりという名の「風」が生み出した。最初の風の一吹きが、新たな風を巻き起こし、今に至る大きな風となって育ったものである。中川行夫という名の風とはどんな風なのだろうか。生い立ちをたどりながら、探ってみたい。
 
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▲中川行夫名誉会長
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●上級生にも恐れられたやんちゃ坊主
大正14年6月22日、富山県の庄川に一人の男の子が生まれた。大牧温泉の経営者の次男。男3人、女1人の4人兄弟の下から2人目。元気な男の子だった。
幼稚園に入るころ、大牧温泉がダムに水没することになり、金屋へ戻る。育つ環境は変わったが、男の子はすくすくと育っていった。小学校・中学校(福野農学校)のころは正義感あふれる“やんちゃ坊主”だった。いつも柔道部の友人と、もう一人体の大きな友人との3人で校内を闊歩(かっぽ)した。たとえ相手が年上であっても、不正や弱い者いじめをする生徒は許さない。殴ってでも“成敗する”ので、上級生からも恐がられる存在だった。学校の成績は良かった。どの教科もいつも「甲」(「5」「A」のことで最優良を表す)。ただ、素行(日々の振る舞いや行儀)だけが「乙」(「4」や「B」)。日ごろのやんちゃ坊主が災いしたのだが、それを気にするふうでもなかった。喧嘩だけでなくスポーツも得意で、中学校の5年間はスキーの選手だった。当時の県大会で優勝したこともあり、先輩の中には後年のオリンピック出場候補選手人もいた。1940年に予定されていた第12回東京大会である。残念ながら戦争のために開催が中止され“幻のオリンピック”となった。富山の冬はとても雪深い。過酷な自然環境の中で、何事もねばり強く一生懸命やる気風が培われた。一生懸命やる気質は、新しいものを積極的に取り入れる“進取の気風”にもつながった。一生懸命やる。つまり、やる以上はベストを尽くす。そのためにはこれまでの方法にこだわらず、新しい方法も積極的に取り入れていかなければならないからだ。
 
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▲当時、兄から父へ宛てた手紙

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▲幼少時代に過ごした当時の大牧温泉(川添い自噴する温泉)
父親に抱かれて(中川行夫)
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●募る一方の満州への思い
中学(福野農学校)の卒業が近づいたある日、中川行夫は地球儀を見て、改めてある思いをかみしめていた。「狭い日本にゃ住み飽きた。満州に渡って大きな1仕事をしたい」地球儀では日本の部分が赤色になっている。しかし、その赤色 の小さなこと。一度、地球儀を転がすと、探すのに苦労するほど小さい。当時は大陸に渡って一旗揚げる風潮が盛んだったこともあって、中川行夫の兄も既に大陸へ渡っていた。「俺も大陸に行こう」この思いは募る一方だった。だが、中学(福野農学校)の校長は、成績の良かった中川行夫を自分が関係するところへ行かせたがった。ある日、校長は中川行夫を呼んで命じた。「おまえは校長推薦でパラオ島の熱帯産業研究所へ行け。すべては俺が手配してある」「いや、行きません。私は満州へ渡って農地を開拓するんです」「校長の命令が聞けんのか」「いくら校長先生の言葉でも、いやなものはいやです」中川行夫は校長の言葉を無視して、さっさと大陸の奉天まで出かけてしまった。日本国内での一次試験に合格していた国立奉天農業大学校(現・沈陽農業大学)の二次試験を受けるためである。国立奉天農業大学校のルーツは1910年に設置された奉天省立農業高級中学。最初は中国人の学校だったが、日本の満州進出に伴ない、1941年農業土木学科を創設、日本人学生の募集が始まっていた。二次試験には見事合格、入学までの3ヶ月を現地で過ごしている間にも、日本にいる校長から9本もの電報が届いた。「至急、日本に戻れ。そしてパラオの熱帯産業研究所へ行け」一時帰国して校長に会う。やはりパラオへ行けという。改めてはっきり断ると「貴様は非国民だ。徴用を科してやるぞ」と脅した。幸い、これは単なる脅し文句に過ぎず、徴用を科されることはなかった。
 
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▲満州国立奉天農業大学校の当時の学生たち


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▲当時の満州、奉天の街

 

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●勇躍、大陸へ、そして終戦
昭和18年、18歳で無事大陸へ渡る。国立奉天農業大学校の土木学科で本格的に土木を学んだ。この中国での体験が中川行夫の大きな転機となった。後年、建設の企業を起こす土壌が培われたのはもちろんのこと、終戦をこの地で迎え、さまざまな体験をしたからだ。終戦を迎えたとき、中川行夫はすぐには帰国しなかった。測量・設計の能力を見込まれて、炭坑で有名な撫順へ移った。帰国させてもらえないものの、仕事は与えられる。持てる技術を教えてから帰れ・・・中国政府が帰国させずに仕事をさせた、とも言える。きっかけは友人の父親の紹介だった。「お前は何ができるか」「測量・設計ができます」「それなら撫順へ行って炭坑で働いたらどうか」当時は帰国できない多くの日本人が食うために撫順へ流れ込んでいた。しかし、簡単にお金を稼げず、餓死する人さえいた。そんな中で幸運にも仕事が与えられ、飢えることもなかった。中国政府から「留用許可証」が発行され、それがあれば、普通ならなかなか乗れない鉄道にも乗れた。幸運だと思った。しかし、それは単なる幸運というよりも、中川行夫の人柄や中国人の友人に対する普段の行いが導いたものである。曲がったことが大嫌いで、人を差別せずに誰とも誠心で付き合う。こうした積み重ねがあったからこそ、友人の父親が配慮してくれ、周りの中国人たちがよくしてくれたと言える。中川行夫の誠実な性格を物語るエピソードがある。中国には自転車で引く車「洋車(ヤンチョウ)」がある。人力車の自転車版である。中川行夫は中国へ渡って以来、洋車に乗ったのはたった1回だけ。病気になって医者のところへ行くときだった。ほかの学生たちは盛んに洋車を利用していたが、中川行夫は乗らない。どうしても必要な場合は馬車(マーチョウ)に乗った。人に引かせて自分が後ろからそれを見下すような車に乗るのは気持ちが落ち着かなかったからだ。周りのみんなが中川行夫によくしてくれた結果、戦争に負けた日本人でありながら、撫順炭坑の西錦天掘計画課に入って、中国人を使って仕事をすることになったのである。とはいえ、給料は1日8円。当時、米1人前が10円した。米はとても食べられない。コウリャンなら半分の5円で買えたので、コウリャンを主食に過ごした。「コウリャンを弁当箱に詰めて出かけるのですが、お昼に食べようとすると、中で動いて半分の量になっていましたのを覚えています」また、トウモロコシを石臼で引いて、できた粉を振るいにかけ、胚の部分だけを集めてお粥(かゆ)にもした。大根の葉を入れて増量したが、やはり腹が減って困った。ときどき、使用人である中国人の家へ招かれて食事をごちそうになった。中川行夫の人柄のなせる業であった。「中国人は個人的には大らかな性格で、友達になりやすい。1対1では日本人を受け入れてくれる」人っていいもんだ。人と人との絆(きずな)は大切だ・・・この体験は中川行夫の懐をさらに深いものにした。後年、企業を起こし、経営する立場となったとき、これが生きた。企業活動はもちろん、あらゆる人間の営みが「人と人とのかかわり」から生まれるものだからだ。資本や技術も大切だが、それ以前に「人に対してどういう思いで、いかに行動するか」が問われる。数多くの建築土木企業が市場を退場する中で、三東工業社が生き残り、さらなる発展へ向けて今歩みを進められているのも、根底にこうした「人に対する誠心」が流れているからに違いない。留用が解除されて日本へ帰国したのは2年後、昭和22年のことだった。中国のコロ島を出港したリバティー型上陸用舟艇は2日かけて佐世保に着いた。夢にまで見た故国の風景が目の前に広がる。だが、すぐには上陸できない。上陸の順番待ちである。1ヶ月近く船内で待機、ようやく陸に上がると、まずはDDT(殺虫剤の一種)の洗礼が待っていた。頭から白いDDTをぶっかけられた。ノミやシラミを駆除するための検疫である。

 
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▲馬車(マーチョウ)

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▲洋車(ヤンチョウ)自転車で引く車

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▲撫順炭坑露天堀り(東西6.6km、南北20km、最深部280m)

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▲撫順(ブジュン)仮停車場

     
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▲流線形デザインが特徴的な特急列車「あじあ号」
 
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▲ハルビン駅
 
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▲あじあ号がデザイン
された当時の満州の切手
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●人の絆で三東工業社を創設
故郷の富山に戻って1~2年は、市町村の土木設計・測量の顧問として公共工事に従事していたが、昭和25年、富山工業に技術者として入社する。朝鮮戦争が勃発、日本中が戦争特需に湧いていた年だった。景気がよかった。国土11の復興が急務で、土木・建築の需要も高かった。昭和28年、まず京都出張所の管理技術者として赴任、福知山や綾部、木津の災害、そしてこの年、信楽地方を襲った未曾有の災害「多羅尾水害」の復旧作業が主な仕事であった。このとき、復旧工事を通じて、地元で土木・建築業を営んでいた成瀬蕎と出会う。成瀬蕎は戦前、南海電鉄で鉄道建設工事に従事していた。奇しくも中川行夫と同じく、青雲の志を抱いて大陸へ渡り、培った技術を生かして活躍していた人であった。終戦と共に日本へ引き揚げ、自らの技術を生かす機会をうかがい、自営の工務店を立ち上げていた。多羅尾災害の復旧工事に頑張っているころ、日本経済を暗雲が覆い始める。朝鮮戦争の特需が終わり、一気に大不況が日本を襲ったのである。富山工業はこのあおりを受けて解散に追い込まれてしまう。さて、どうするか。終戦の混乱を生き抜いた中川行夫はうろたえなかった。昭和29年4月、成瀬蕎が立ち上げた弥生工務店の一員となって、災害復旧工事を続行したのである。多羅尾災害復旧工事を通じて得た「人と人とのかかわり」が生きた。弥生工務店の業務が軌道に乗るに従い、成瀬蕎、中川行夫、そして中西保太郎(のちの信楽町長)の三氏を軸にした経営体制が整っていった。まだ、ツルハシやスコップでの人力作業が中心だったこの時代に、ブルドーザーなどの機械を積極的に導入した。中川行夫の進取の気風が早速発揮されていったのである。会社の基盤が固まった昭和33年3月、社名を現在の三東工業社と発展的に改称して、中川行夫が代表取締役に就任、新たなスタートを切ることとなった。名実共に「三東工業社」が誕生した瞬間である。三東工業社の名称は鼎(かなえ)の足が三本で安定していることと3人の幹部で出発したことから「三」、日が昇る方向で隆盛を象徴する「東」、そして技術を象徴する「工業」、人のつながりを意味する「社」からつけられた。奇しくも3人とも中国からの帰還者であった。中川行夫の「人と人とのかかわり」から生まれた縁を感じさせるスタートであった。
 
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▲信楽地方を襲った未曾有の災害「多羅尾水害」
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●正義感と合理的精神で道を開く
その後、日本経済の高度成長の波に乗って、三東工業社は急速に発展していく。昭和48年に第一次オイルショックが日本列島を襲った。このときは、建築資材がみるみる値上がりしていくが、鋼材を先に手当てするなどして無事乗り越えた。当時、ヨーロッパ出張中だった中川行夫が現地から指示を出して買わせ1たのであった。即座の判断が会社を救った。また、あるとき、8000万円の工事費を取りはぐれそうになる“事件”が起こった。支払ってもらえないどころか、違約と称して差し押さえに来る始末。得意先との間に入った弁護士があこぎな行為を働いたのだ。「8000万円を取り返すことも大切だが、それ以上に不正を許しておくことは社会正義に反する。悪徳弁護士を懲らしめてやろう!」中川行夫は追及の手を緩めなかった。泣き寝入りすることなく、積極的に裁判まで打って、徹底的に戦ったのである。中学校時代、不正や弱い者いじめをする者は上級生でも構わず成敗した、あの精神に通じるものがある。工事費は無事回収され、弁護士の不正をただすこともできた。正直で正義感あふれる中川行夫ならではのエピソードである。昭和40年代、1000万円ほど資本金を増資する必要が生じたときも、中川行夫ならではの手を打った。給与は現金払いが普通の時代に「給与の銀行振込」を導入、それによって増資を可能にしたのである。増資分は役員だけではまかなえない。社員にも株を持ってもらう必要があるが、社員とて右から左へ資金を用意するわけにはいかない。そこで社員が株を取得する資金を銀行に貸してもらい、その代わりに社員の給与はすべて銀行振り込みにする。これなら銀行側にとっても預金確保の利点が生まれる。早速、当時まだ珍しかった社員持ち株制度を定めて社内に持ち株会を作り、給与の銀行振り込みを実行した。いいと思ったことは即座に取り入れる決断の早さは中川行夫の真骨頂であった。後年(平成7年)、三東工業社が株式を公開する際、社員持株会を作るようにすすめてきた証券会社は、三東工業社に既にそれがあることに驚いたという。
 
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▲創立35周年記念祝賀会
 
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▲創立35周年記念祝賀会
 
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▲株式公開記念パーティ
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●会社を救った正直な経営
バブル経済が絶頂を迎えたころのことである。取引銀行の地元支店長がしきりに土地の購入を勧めたことがある。「絶対に儲かりますよ。是非とも当行に融資させてください」しかし、中川行夫は言った。「確かに不動産が儲かるのは分かっている。だが、考えてみてほしい。不動産で1億円儲けるのと、毎日泥にまみれて働いて1億円儲けるのとでは、同じ1億円でも重みがまるっきり違う。従業員がどう思うだろうか。これだけ一生懸命働いて得た1億円なのに、土地をちょこっと動かして得られる額と同じだなんて」当時は、不動産投資や財テクに手を出さない経営者は経営者失格とさえ言われた時代である。そんな時代にこの判断だった。「分かりました。今後、この話は一切いたしません」支店長はこう言って引き下がった。ちなみにこの支店長は後年、三東工業社に入り、現在は役員である。中川行夫の考えに共鳴、中川行夫からも請われての入社だった。このケースはオーナー経営者であることの良さが出た例だと言える。オーナーではない社長は、そのときの業績を上げたいがために土地投資に手を出しがちだった。しかし、何と言っても最大の要因は中川行夫自身のものの考え方にある。曲がったことやずるいことは大嫌い、堂々と王道を行く経営を貫きたいとのポリシーである。このときの経営判断は後年大きな「実」となって返ってくる。バブル崩壊後、不要な不動産がないことが幸いしたのがそれである。バブルに浮かれた多くの企業が、抱え込んだ土地資産が重荷になって、次々と苦境に陥っていった。しかし、三東工業社は借入金のない超健全経営を現在も続けている。運もよかった。昭和49年、東芝と共に住宅産業に参入したときに、信楽に所有していた遊休地をすべて東芝へ売っていた。東芝が住宅事業から撤退すると同時に住宅事業をやめているが、後年のバブル崩壊後ダメージを小さくしてくれたからだ。そうした姿勢で企業を経営、社会に貢献したことを高く評価された中川行夫は、昭和53年に滋賀県知事表彰を受け、同58年には建設大臣表彰、同60年には黄綬褒章、平成7年には勲五等瑞寶章を受章している。一方業界に対しても積極的に貢献、昭和59年に社団法人滋賀県建設業協会会長に就任、同63年には社団法人滋賀県建設産業団体連合会を自ら設立して相談役に就いた。
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▲黄綬褒章受賞祝賀会会場でお出迎えする会長
 
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▲祝賀会場で鏡開きをする会長夫妻
 
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▲黄綬褒章の勲章
 
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▲瑞寶章
 
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▲当時の会長
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●中国との縁、再び
中川行夫と中国は深い縁で結ばれている。国立奉天農業大学校当時の仲間とはその後も連絡を取り合い、国内での同窓会の幹事役も務めていた。しかし、実際に中国への再訪を果たせたのは、文化大革命が終わった昭和56年のことだった。武村滋賀県知事らと共に訪中団の一員として訪中、かつての仲間と再会したのである。さらに、昭和61年には、滋賀県都市建設関係者友好訪中団(21名)の団長として、10日間の日程で訪中した。このときは、湖南省長沙を中心に、広州、桂林、北京の各都市を訪問、都市建設の状況を視察している。中国ではかつての友人たちがそうそうたる社会的地位を得ており、中川行夫は大いに歓待された。特に大学の先生になっている旧友が多く、平成元年、中川行夫は彼らからハルビン師範大学顧問教授の称号を贈られた。同9年には瀋陽農業大学客員教授、11年にはハルビン医科大学名誉教授の称号も贈られている。また、ハルビン師範大学の徐國林校長は、中川行夫に次の詩を贈ってくれた。「財」を創り出して人々に提供、利用してもらい、事業はますます盛んとなる。その結果、(会社は儲かり、かつ)人々の役にも立つ存在となっている。・・・といったところだろうか。人と人との絆を大切にする中川行夫の心、三東工業社の企業としてのあり方を如実に表現している。

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▲ハルビン師範大学
 
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▲徐國林校長より贈られた詩

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▲中国訪問
(左からハルビン師範大学 大学院 院長 (奉天農大同窓)、中川会長、王ハルビン師範大学 王学長)
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●風のように自由に
中川行夫は人から座右の銘を問われたときはいつもこう答えるという。「ありません」物事は固定して考えてはいけない。中途半端に座右の銘などを意識すると、それに引っ張られて、物事をあるがままに見られないからだと言う。だから、三東工業社には社是も社訓もない。珍しい企業である。真っ白な心で現実をしっかりと見ることが大切だとした。頭で考えて議論をこねくりまわすよりも、まずは現場を見てこい、そして「やってみろ」と言うのが常だった。「これからの時代、ますますグローバル化、ボーダーレス化が進み、先の見えない時代になっていきます。現実に正面からぶつかって考え、そして行動すべきです。その中から事例ごとの原理原則が出てくる。しかし、それは固定されたものではなく、常に変化しています。かつての体験で得た原理原則が、いま目の前の事例に当てはまるとは限らないのです」変な成功体験やトラウマともいうべき失敗体験のいずれからも自由である。「変化し続ける現実」に対応して、自分自身も常に変化しながら対応していく・・・。これが中川行夫のポリシーである。これは何かの特性に似ている。そう「風」である。定まるところがなく、常に変化流動している。相手がどのような形のものであっても、包み込むことができる。自由自在である。草原の風がそこにある草木一本一本にしっかりと触れながら、形を換え、吹き抜けていくかのようだ。「無理して何をするのではなく、巡り会い訪れてきた出来事に対して、一生懸命やっているうちにこうなった・・・そんな感じです。自分が分かること、できることをやって行こうと。振り返ってみて、苦労だと思ったことは一つもありませんね」人と人との間を流れ、人と人との縁を結ぶ風。先入観にとらわれない、風のように自由な精神。中川行夫の中川行夫たる所以(ゆえん)はここにあるのではないだろうか。

 
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▲栗東に三東工業社があってよかったと思われる企業を作る
(1978年頃 栗東本社)

   
   
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